pha著「ニートの歩き方」特設ページ

はじめに

(※この原稿は草稿のため、出版時には変更されている可能性があります)

人間は働くために生きているのか

 だるい。めんどくさい。働きたくない。

 小さな頃からずっとそう思っていた。「働かないと生きていけない」ということにどうしても納得がいかなかった。

 みんなそれが当たり前だって言うけれど、確かにそうなのかもしれないけど、でもそんなはずはない、というか、それだと嫌だ。学校に行くのも会社に行くのもだるいし、人と会ったり話したりするのは面倒臭いし、毎日満員電車になんか乗りたくない。人生ってそんなどうしようもないクソゲーなんだろうか。いや、毎日寝たいだけ寝ていても生きていける道がどこかにあるはずだ、と理由もなく強く信じていた。


 今33歳の僕は、28歳のときに「インターネットさえあればニートでも楽しく生きられるんじゃないか?」と思い立って会社を辞めて、それからはずっと定職に就かずにぶらぶらと暮らしている。

 働いていたときに貯めていた貯金は二年で尽きて、今はネット経由で得られる僅かな収入を頼りにして暮らしている。金銭的にはギリギリなんだけど、それでもネットがあればお金がなくても楽しいことはたくさんあって退屈はしないし、ネットを通じて知り合った友達や知り合いもたくさんいるし、それなりに生活に満足している。これ以上他に人生でしたいこともそれほどないし、ずっとこんな暮らしが続けばいいなと思っている。


 この本は、かつての僕と同じように「人間はちゃんと会社に勤めて真面目に働いて結婚して幸せな家庭を作るのが当たり前の生き方だ」という社会のルールにうまく適応できなくてしんどい思いをしている人に向けて、「別に働くことだけが人生じゃないし、ニートも一つの選択肢としてありなんじゃないか?」ということを伝えようと思って書いたものだ。

 僕はもともとはブログ(http://d.hatena.ne.jp/pha/)で「働きたくない」「仕事嫌だ」っていう内容の文章をひたすら書いていたんだけど、そしたらネットで話題になって、ニートとして取材を受けたりイベントで喋ったりするようになって、そんな流れでついには本を出すことになってしまった。人間何がどうなるか分からない。

 人間は会社に勤めなくても、労働をしなくても、あんまりお金がなくても、いくらでも楽しいことをできるしいくらでも幸せになる方法があるはずだ。こんなに文明や技術が発達した世の中で、昔ながらの固定した生き方に縛られる必要なんてどこにもない。一般的に「これをするべきだ」と決められているものなんか気にせずに、本当に自分に必要なものだけ手に入れればいいのだ。


 しかし急いで付け加えておきたいのは、この本に載っているのは「働かなくてもアフィリエイトで月収50万円!」みたいな景気のいい話ではない。そんなうまい話はやっぱりあんまりない。基本的には「一般的な生き方のレールから外れても、ものすごいダメ人間でも、何とかギリギリ死なない」というぐらいのところを想定している。

 実際僕の生き方にしたって、時間だけは腐るほどあって毎日ゴロゴロと寝て暮らしているけれど、お金はあんまりないし、将来のことも全く考えていない。僕はそもそも興味がないので構わないけど、ニートだと結婚したり子供を育てたり家を買ったり車を買ったりすることは諦めないといけないだろう。高級な飲食店で飲み食いしたり高級な店で買い物したりするのも難しいし、ヨーロッパやアフリカに旅行したりもできないだろう。

 しかも、僕はたまたまうまく行っている方だけど、他の人がみんな僕と同じように生きられるわけでもない。多分、大多数の人は僕の送っている生活よりも普通に働いていたほうが幸せで安心な生活だと感じるんじゃないだろうか。

 僕だってみんなニートになればいいと思っているわけじゃない。普通に会社に通って働いていて満足できる人はそれでいい。人はそれぞれ自分に合っている居場所があるし、ニートにも社畜にも向き不向きがある。適材適所だ。

 でも、僕と同じような、学校や会社や労働に苦痛を感じている世の中の少数派の人にとっては、この本に書いてある「別にニートという生き方もありなんじゃないか」という考え方は、何かの生きていくヒントになるのではないかと思っている。実際にニートにならなくても、この社会で当然とされているルートがそれほど絶対的なものではないことを知って、「そういう選択肢や考え方もあるんだ」と思ってもらえれば、今感じている閉塞感に少し穴を開けられるんじゃないだろうか。人生は有限だから全てを選ぶことはできない。自分に本当に大切なこと以外は諦めるのが大事だ。いろんなことを諦めると人生はわりと楽になる。


会社中心社会の終わり

 この本のキーワードの一つは「閉塞感」だ。自分より若い十代や二十代の人を見ていても、先行きにあまり希望が持てずにどんよりしたものを感じている人が多いように感じる。

 それも無理がないと思う。大人になって社会に出てやって行こうとしても、就職活動はハードだし、頑張ったとしても正社員の採用は少ない。ブラック企業しか働くところがなくてキツい労働や上司のモラハラで精神を病む人も多い。たとえいい企業に就職できたとしても、十年後にその会社が倒産していない保証もない。かと言って、ロクな仕事がないからといって一旦働くことから外れてしまうと、仕事をしていない期間が履歴書にあるということで再就職が難しかったりする。結婚したり子供を作ったり育てたりするという当たり前のことも昔に比べて難易度が上がっている。年金制度も今の若者が老人になるころにはどうなっているか分からない。あまり日本の未来を考えても、良いニュースは待っていなさそうだ。

 しかし、それでも東南アジアの発展途上国なんかと比べてみると、やっぱり日本はまだまだ恵まれている方だと思う。ごはんは美味しいし道路や水道や電気などのインフラは安定しているし、治安もいいし文化的にも豊かだし物もたくさんある。

 じゃあなぜ、日本に生きる若者がこんなに生きづらさや閉塞感を感じているんだろう。それは多分、日本の経済がまだ成長しているころに作られたルールや価値観が生き残っていて、それがみんなを縛っているせいなんじゃないかと思う。


 昔、まだ元号が昭和だった頃、日本では会社が社会の中心だった。きちんとした会社の正社員になって終身雇用で定年まで真面目に勤め上げ、35年ローンで郊外にマイホームを買って暖かな家庭を築くのが理想的な幸福だと信じられていた。日本の経済は成長し続けていたし、当時流行った「一億総中流」というスローガンが象徴するように、国民みんなが中流階級だと思えた幸せな時代だった。

 しかし現在ではそんな幻想は完全に壊れてしまった。

 今は不景気で正社員になることさえ困難だし、一流とされている会社が突然倒産したりもする。身を粉にして働いて会社に自分を捧げても、会社はもう社員に幸せを保証してはくれない。会社に身を預けていれば安心だという時代は終わったのだ。


 僕の知り合いで、大学を卒業して新卒ですぐにある大きな会社に勤め、その半年後に自殺してしまった奴がいる。聞く話によると会社がとても厳しく、仕事もハードで家にもあまり帰れず、毎日いつも疲れていて、仕事についてずっと悩んでいたらしい。(死んだ人の気持ちは分からないので、多分、だけど)その結果として、20代前半の若さで彼は首を吊って死んでしまった。

 僕はそれを聞いてすごく悲しくなったし、すごくもったいないと思った。仕事なんかで悩んで死ぬなんて本当に馬鹿馬鹿しい。死ぬくらいだったら無責任でも何でもいいから、全てを捨てて辞めて逃げればよかったのに。死なないこと以上に大事なことなんて人生にはない。

 仕事なんて命に比べたらどうでもいい。人間は仕事のために生きてるわけじゃないし、仕事なんて人生を豊かにするための一つの手段に過ぎないんだから。


 人生なんて、天気のいい日にぶらぶら散歩して、美味しいご飯を食べてゆっくりと風呂にでも浸かればそれで幸せなものなんじゃないだろうか。

 でも、会社という組織に属しているとその組織の雰囲気に縛られて、そういう人生の基本的なところを忘れてしまうことがある。ちゃんと働かなきゃいけない、真っ当に生きなきゃいけない、他人に迷惑をかけてはいけない、といった強迫観念がみんなを縛り付けているせいで、日本の自殺者は年間3万人もいるんじゃないだろうか。

 日本人は世間体を気にして自分を犠牲にし過ぎだと思う。もっと全体的に適当でいい加減になっていいし、それで社会が不便になるなら不便になってもいい。電車やバスが遅れまくったり停電がしょっちゅう起きたりコンビニが二十四時間営業じゃなくなっても、その分みんなが気楽に生きられるならそっちのほうが幸せだ。


インターネットによる個人の時代

 標準的な生き方なんて大体30年くらいで変わってしまうものだ。今の世間で常識とされていることは、現在社会の中心にいる上の世代の人が若者の頃にできあがった一時的なものに過ぎなかったりする。古い生き方や古い常識にとらわれることに意味はない。会社や国などの大きな組織や一般的な常識を信じていれば何とかなる時代は終わってしまったのだ。

 けれど、その代わりに今の時代にはインターネットがある。ネットのおかげで、個人のレベルでできることがものすごく増えた。ネットがあれば組織に属さなくてもいくらでもいろんな人と繋がれるし、マスコミを通さなくてもいくらでも情報を発信できる。僕は集団行動が苦手で協調性がなくて、組織に所属するのがすごく苦手なので、ネットさえあれば一人で何でもできる今の時代に生まれて本当によかったと思っている。


 僕の今の生活は9割くらいがインターネットに支えられている。ネットで友人を作り、ネットで雑談して、ネットの動画や文章やゲームで暇を潰し、ブログに文章を書いて遊んだり、サイトに広告を貼って小遣いを稼いだりしている。

 インターネットがあればあんまりお金を使わなくても楽しいことができるし、友達を作ることもできるし、(少しコツがいるけど)収入を得ることもできる。会社を辞めても、仕事をしてなくても、インターネットさえあればそこそこ幸せに生きられるんじゃないか? と思って仕事をやめて5年経つけれど、今でもその考えは間違っていなかったと思う。


 お金とか地位とか名誉とかやり甲斐とかそんな大層なものがなくても、とりあえずの食べるものと、暇を潰す手段と、あと友達さえいれば、人生なんてそんなものでいいんじゃないだろうか。

 先行きがどうなるかは分からないけれど、先のことを考えすぎても仕方ない。10年後、20年後にこの社会がどうなっているかなんて誰にも分からないし、また必要が迫ってから考えればいい。人間いつ何が起こって死ぬか分からないし、いつかは絶対に死ぬ。人生なんて死ぬまでの間をなんとかやり過ごせればそれでいい。


 別に働くよりニートのほうがいいって言うつもりはない。働きたい人は働けばいいし、働きたくない人は働かなければいい。

 ただ、一旦ニートになってもまた気が向けば仕事に復帰したり、働いていてもちょっと疲れたなと思ったら気軽にニートになったりするのが可能で、一時的にニートをやってても周りから咎められないような、むしろ周りからいろいろ助けてもらえるような、そんな社会が生きやすいんじゃないかと考えているだけだ。 

 みんなニートにならなくてもいいから、ニートじゃない人が「あんまり働かない生き方もありだな」と若干思ってくれるだけで、この社会はずいぶん生きやすくなる。働かなくてもそれほど後ろめたさを感じずに生きられるというのが本当に豊かな社会だと思う。

メキシコの漁師の生き方

 ネットで有名なこんな小話がある。

 メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。

 すると漁師は「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

 旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

 すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

 漁師は尋ねた。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」

「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」

「それからどうなるの」

「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」

と旅行者はにんまりと笑い、

「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

 別にビジネスマンを目指す人がいたっていいんだけど、ほとんどの人は本当はビジネスマンではなく漁師のように生きられればそれで十分幸せなんじゃないだろうか。この本はメキシコの漁師のように生きるための本だ。



ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法





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