pha著「ニートの歩き方」特設ページ

集まってると死ににくい

(※この原稿は草稿のため、出版時には変更されている可能性があります)

弱いものこそ集まろう

 東京の渋谷に、「人が集まる空間を作ることが一つのアートだ」と言って、一軒の建物に若者が二十人くらいで集まって住んでいる渋家(シブハウス)(http://shibuhouse.com/)という変な家がある。

 家の中にDJブースがあったりして頻繁にパーティーを開催しているので住人以外の来客も頻繁で、とにかくいろんな人が日常的に出入りしている。遠くからやってきて宿泊していく人も多い。僕がこないだ遊びに行ったときは、沖縄から来てしばらく泊まっているという人がいて話したんだけど、その彼は「家にいながらいろんな人に会える、家なのにまるで街のようだ」と言って感動していた。そして、彼は沖縄でも同じようなものを作りたいと思い立ち、その後実際に沖縄の那覇にナハウスというハウスをオープンさせたそうだ。

 その渋家の中心人物の一人である齋藤桂太くんがあるトークイベントで喋っていたことなんだけど、集団で住んでいる理由の一つとして彼が挙げていたのが「集まってると死ににくい」という言葉だ。名言だと思う。

 ニートのような弱い立場の人間ほど、仲間を作ることは重要だ。

 僕自身が定職に就かずふらふら生きていても別に苦じゃないのも、周りに相手をしてくれる人がたくさんいるからだ。僕は仕事を辞めてからはシェアハウスに住んで共同生活をしているから大体いつも周りに誰かがいるし、ネットを使えば一人でひきこもっていてもいろんな人とコミュニケーションを簡単に取れる。

 平日の昼間からやることがなくても、一緒に遊ぶ仲間がいると退屈もしないし寂しくもならない。一人だと時間を潰すためについついお金を使ってしまったりするけど、友達が一緒ならお金をかけなくても楽しく遊んでいられる。何か困ったときも知り合いが多ければわりと何とかなったりする。  

マイノリティのコミュニティを探そう

 一般的なレールから外れて生きることを目指すなら、同じような境遇の仲間を見つけよう。自分が多数派の場合は、特に深い疑問を持たずに一般的に当たり前だって決められたことを守って目立たないようにしていれば基本的に何とかなったりするんだけど、少数派にあたる人間はこの多数派だらけの世界の中で、死なないために仲間を作って協力したり情報交換したりしていくことが必要になる。

 ニート的な仲間を探すと言っても、なんだかんだ言っても世の中の多数派は月曜から金曜までちゃんと働いているカルチャーの人たちなので、平日の昼間からふらふらとしているような仲間はなかなか見つからないかもしれない。

 けれど、そうした一般的なレールから外れた人間は人口の一定の割合で確実にいるものだし、イメージとしては大きな石をどけるとその裏に変な虫がいっぱい集まっているみたいな感じで、どこかの変な溜まり場に固まって集団でいるものだ。

 僕はニートになってから、「働きたくない」とかブログでしょっちゅう言っていたせいか、自然と周りに真っ当なレールから外れた人間がたくさん集まるようになった。

 ニート、不登校、アフィリエイター、転売屋、フリーランスのエンジニア、日雇い労働者、ホームレス、多重債務者、フリーライター、売れない漫画家、漫画家志望のニート、バンドマン崩れ、劇団員崩れ、会社をクビになった失業者。どうしても毎朝ちゃんと起きれなかったり、ネクタイを締めてスーツを来て満員電車で通勤するのに耐えられなかったり、他人と一緒にいるだけで物凄いストレスを感じたり、何だか分かんないけどときどき訳の分からない衝動が心の中から湧き上がってきて仕事どころじゃなくなったりする、会社や学校に大人しく通うことができないような人たち。

 そんな人が集まる界隈にいると、働いているかどうかなんてことは大した問題じゃないような気がしてくる。

ニートとフリーランスの間

 会社に勤めずにフリーランスで働いている人とニートの境目って結構曖昧だ。フリーランスと横文字で言うと分かりにくいかもしれないが、要は一人で仕事をしている自営業者だ。フリーランスで働いている人たちは土日と平日の区別もあまりないし、忙しいときは忙しいけれど、暇なときはニートとあまり変わらない感じで一日中寝てたりする。

 仕事をあんまりしないフリーランスの人と、たまに働いたりするニートってほとんど同じようなものだ。「フリーライターやってるけど月収五万円くらいで全然食えない」って言ったらダメっぽい感じがするけど、全く同じ状況を説明するのに「ニートだけどたまに文章書いてて月に五万稼いでる」って言ったら凄いような気がする。「ニートだけど漫画を描いてて若干の収入がある」だと良さそうだけど「漫画描いてるけどたいして売れてなくて全然食えるほどじゃない」だと別に珍しくもない。一年の半分をエンジニアとして働いて、あとの半分を物価の安い海外でニートをして過ごすなんて人もいる(そういうことができるためには腕前や人脈が必要だけど)。「フリーランスだけどあまり仕事してないのでニートみたいなもんです」とか自己紹介する人は珍しくない。肩書きなんて結局そんな風な言い方の問題に過ぎなかったりする。

 ニートとかフリーランスとか、平日の昼間からふらふらしていたり、週末でもないのに徹夜で遊んだりしているような人たちの仲間ができれば、ニートをしていても退屈をもてあましたり寂しくなったりすることがなくなってくる。そういう人たちの中にいると、毎日だらだらしていても何も言われないので楽だ。「できるだけ働きたくない」とか言っても別に説教されたりせずに「そんなの当たり前だよね」って感じだ。

 自分がニートで毎日ぶらぶらしてるってことが知れ渡っていると、「来週平日に引っ越しするんだけど手伝ってくれない?」とか、「明日急にイベントのスタッフが急に足りないんだけど来れない?」とか言われて、簡単な仕事を貰えたりすることもある。僕もだるくないときはそういうのをたまに手伝ったりして、ちょっとお金を貰ったりする。

 ニート歴が長い人はそういうよく分からないうさんくさい人たちのネットワークをたくさん持っていることが多い。世の中はそういう何をやっているかよく分からない人たちの繋がりで回っている部分もあるのだ。

インターネットと都市に出よう

 そして、そういう多数派ではない気の合う仲間と知り合うためのツールとして、とても優秀なのがインターネットだ。ネットならどんなマニアックな趣味でもマイナーな思想でも、同じような感覚を持った話の合う人たちが絶対に見つかる。

 リアルで周りに話が合う人がいないという人は、ツイッターやブログで、リアルでは言えないようなマニアックな話、偏った考え、特殊な趣味、異常な感情などを吐き散らすべきだ。それは99・9%の人間には理解不能なものとして眉をひそめられたり気持ち悪がられたりするかもしれないけど、全世界で何百人か何千人かは絶対に共感してくれる人がいる。突出した異常さは書き続けていればそのうち同じようなタイプの人に届く。

 インターネットは現実ではなかなか口に出しにくいような人間の濃い部分が出ていることが多いから面白いのだ。ネット経由で人と仲良くなるときは、「ネットでいつも変なこと書いてる奴がいるから会ってみたい」というようなきっかけから仲良くなることが多いし、ネットで吐き出した異常さや過剰さが仕事に繋がることもある。僕の友達には、ツイッターでずっと変な文章を書き殴っていたら「何か書いてみないか?」とか言われてそのままライターになった奴がいるし、ニートだけどブログでプログラミングのことをずっと書いていたらプログラマの知り合いが増えて、そのままプログラマとして就職が決まった人なんかは何人もいる。

 東京などの都会に出てくるのもいい。マイノリティは人口の少ない田舎では住みにくい。

 都会だったら好き勝手なことをやってても家族親戚とか近所とかに咎められたりしないし、全体の人口が多いせいでどんなに凄くマニアックな趣味でも、数千人ぐらいの仲間が集まって一定のコミュニティを作っていたりする。無職だってニートだって引きこもりだって何十万人という単位でいるし、ネットで声をかければ東京ならば自分と似たような人にすぐに会うことができる。

 高円寺とか歩いてると何をやっているのかよくわかんない胡散臭い格好の若者が平日昼間からたくさん歩いているし、赤羽とか行くと午前中から居酒屋で酒を飲んでるおっさんが大量にいる。都会にいると「ふらふらしているだめな大人は結構たくさんいるものなんだ」ということを実感できて心強い。

選択肢が多いことは絶対的な善だ

 都会にしろインターネットにしろ、重要なのは「家庭とか学校とか会社とかの固定された人間関係だけじゃなくて、他の人たちとも繋がれるという選択肢がたくさんある」ということだ。

 人がたくさん集まる場所では、いろんなタイプの人間がいて、いろんな小さなコミュニティがあって、その中から自分に合った場所を選ぶことができる。さらにインターネットでは、検索機能やレコメンド機能によって自分に合う人や合うコミュニティを探すのがとても簡単になった。

 ある場所では合わなくても他の場所ならうまくやれるかもしれない。選択肢が多いほどそこから漏れてしまう人間は減る。選択肢が多いということは絶対的な善だし、この世の不幸の大部分は選べる選択肢が少ないせいだと僕は思っている。

 学校でのいじめなんかは選択肢が少ないから起こる不幸の典型的なものだ。

 小学校や中学校や高校は、クラスが固定されているので人間関係も固定されてしまって、人間関係がうまくいかなくても決められた教室に登校するしかない。だからと言って「学校に行かない」という選択肢もまだまだ今の日本ではハードルが高い。

 そういう閉鎖的な環境にいるからいじめなんてくだらないことが起こってしまう。その証拠に、クラスなどの強制的な結びつきがあまりなくなる大学では、小学校・中学校・高校までみたいないじめはほとんどなくなってしまう。僕はいじめられてたわけじゃないけど、学校の教室ではいつも居心地の悪さを感じていたので、高校を卒業して大学に入って初めてちゃんと息ができるような解放感を感じた。

 いじめられた方がすぐに別の場所に逃げちゃうことができればいじめなんてエスカレートしないものだ。だけど、顔を合わせる人間を変更しにくいという学校のシステムや、与えられた環境に不満を言わず我慢するべきだというような同調圧力が人を逃げにくくして、その結果として不幸が生まれてしまう。

合わない場所には行かなくていい

「学校や会社にちゃんと行きなさい」

「みんなやってるんだからそれくらい普通にできるでしょ」

「普通の環境に適応できないのは努力が足りないから」

なんていう意見は、大して努力しなくても自然に社会に適応できる多数派の人の傲慢な意見にすぎないので聞かなくていい。人間はいろんなタイプがいるのだ。

 嫌な場所には行かなくていいし、嫌いな奴には会わなくていいし、自分の居心地のいい場所に行って、自分のやりたいことだけしていればいい。人生なんて本当はたったそれだけのシンプルなものだ。悪い場所からはできるだけ早く逃げよう。

 若い人がいじめで自殺したりするのは本当にもったいないしクソだと思う。自殺してしまう人というのは、他の選択肢が見えなくなってしまっていて、もう生きていてもどうしようもない、と思うから死を選んでしまうことが多い。「今が駄目でも他の場所に行けば何とかなるかもしれない」という選択肢や可能性が残っていれば人はなかなか死なない。だから選択肢がいろいろあることは重要なのだ。別に世間的に立派な生き方じゃなくても、生きてりゃそれでいいだろうって思う。どうせ百年もしたらみんな死んでしまうんだし。

 インターネットの発達によって新しい人間関係を作るのはとても手軽になったし、シェアハウスなどの流行で東京などの大都市に住むハードルも低くなった。現在は今までで一番ニートにとって生きやすい時代なんじゃないかと思う。都会に引っ越すのはコストがかかるので無理な人も多いかもしれないけど、世界に生きづらさを感じている人は、とりあえずみんなネットをやるべきだと思う。ネットに自分のよく分からない変な気持ち悪い部分を晒そう。それはどっかで誰かに繋がったりするから。

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法



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