「ギークハウスなう」第29回(Software Design 2012年09月号掲載)

つながりすぎる社会も疲れませんか


ソーシャル全盛の世の中

 すっかりインターネットはソーシャル色に染まってしまった。TwitterやFacebookを使っているのは当たり前。何か新しいネットサービスが出ればそれは当然のようにTwitterやFacebookに結び付けられる。ほとんどのウェブ上での活動はソーシャルネットワーク上での人間関係のネットワークに関連付けられ、人と人とがつながるための材料にされる。昔に比べてネットを媒介にした人間同士のつながりはとても密度が高くて頻繁で日常的なものになった。

 僕は5年前に会社員を辞めてそれ以来定職につかずにふらふらした生活を送っているんだけど、その辞めたきっかけの一つは「別に組織に属さなくても無職でも、Twitterとかソーシャルネットワークを使っていればいくらでも知り合いや友達を作れて退屈しなさそう」というものだった(そのあたりのもっと突っ込んだ話は技術評論社から8月3日に発売された「ニートの歩き方 - お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法」という書籍に書いてますので興味のある人は読んでみてください。以上宣伝)。

 まあその目論見はうまく行って、今の僕の生活はネットを活用することで仕事をしてたとき以上に知り合いや友達に恵まれていて、孤独を感じることはない。だがその一方で、人とつながれるのはいいんだけど、あまりにもつながれすぎちゃうのもデメリットがあるんじゃないか、ということもときどき思うようになった。いくらでも人とつながれる生活は疲れるものなのかもしれない。

魅力的な人間が多すぎる

 昔は「ネットを見ればいくらでも気の合いそうな人を見つけられる」ということに対して単純に喜んでいた。リアルではあまり見つけにくいいような、マニアックな話題や趣味が自分と一致する人も、ネットで探せばいくらでもいた。東京に住んでいるとそういうネットで知り合った人と実際に会うのも簡単だ。ネットをチェックすれば、週末ごとにどこかで人の集まるイベントがたくさん開かれているので、そういう場所にこまめに顔を出しているといくらでも知り合いはできる。

 だがあるときふと気づいたのは、仲良くする人が移り変わるのがやたらと早くなっているということだ。一年もすると普段コミュニケーションを取ったり遊んだりする人がガラリと変わっていたりする。ネット以前はもっと周りの人間関係の移り変わりは遅かったはずだ。

 例えば、ネット上のAというクラスタとBというクラスタに顔を出してよく遊んでいたとする。そのうち、新しくCやDというクラスタの人とも知り合って、仲良くなってそっちに顔を出すようになる。そうすると、AやBに顔を出す頻度は減って、なんとなく疎遠になってしまう。別にAやBのクラスタが居心地が悪くなったわけではないけれど、気力や体力的に、全ての知り合いと常に親密に付き合い続けるのは難しいからだ。長い間インターネットをやっているとそんな風になんとなく疎遠になってしまった人は結構いて、そういう人たちとは今でもTwitterでやりとりしたりはするけれど、特に理由もなく疎遠になってしまったことがなんとなく寂しく感じる。インターネットを見ていると面白い人や魅力的で仲良くしたい人がいくらでもたくさん見つかるんだけど、その全てと仲良くすることはできないのだ。

他人に割けるリソースは有限

 多分、人間が普段付き合える人間の数には限界がある。毎日のように顔を合わせて親しく付き合えるのはせいぜい十数人くらいまで、ときどき連絡を取りつつ月に一度か二度会うというくらいの距離感でも、そういう関係を保てるのはせいぜい多くて百人ちょっとぐらいじゃないだろうか。いくら自分と気が合う魅力的な人と知り合う機会が増えても、継続的に関係を維持するには時間や体力や気遣いなどの有限のリソースが必要だからだ。

 Twitterを使えば人とつながりやすくなるとはいっても、何千人もフォローすると、そもそもタイムラインを追うことが難しくなる。全員のつぶやきをこまめにチェックすることはできなくなって、自分がタイムラインを見たときにたまたま流れている発言を流し読みするぐらいしかできない。数を増やすとコミュニケーションの密度は薄まる。「自分がフォローしている人全員を把握できた、フォロー人数が百人や二百人くらいの頃がTwitterでは一番楽しかった」というような声もよく聞く。しかしいったん増やしたフォローはなかなか減らしにくい。昔には戻れないのだ。

 Facebookなんかでも、何かちょっとした機会に人に会ったりするたびにどんどん友達の登録人数が増えていく。だが人数が増えればその分だけそのまま人間関係が豊かになるわけではない。逆に一人一人の友人に使う時間や注意力は減ってしまう。ソーシャルネットワークは人間のもともと持っている人間関係の処理能力以上に交友関係を広げてしまうものなのかもしれない、とときどき思う。

代替可能な人間関係は味気ない

 また、「仲良くできる可能性がある魅力的な人の数が世界にはあまりにも多い」という事実自体も、それはそれで微妙な感情を人間に与えるのではないだろうか。例えばある親しい友人がいたとして「こいつは確かにいい奴だけど、ネットで探せばこの人と同じくらいいい奴はいっぱいいるよな」と思ってしまうと何か味気ない。やっぱり親しい人との付き合いでは「こんなにいい奴と運良く巡りあって仲良くできてうれしいなあ、ラッキーだなあ」って、(それが錯覚だとしても)思う必要があるんじゃないだろうか。世の中にはいろんなタイプの人間が無数にいて、ある人間は他の人間と置き換え可能だということは、真実なのかもしれないが、それは親密さを前提とする人間関係にはあまり馴染まない視点なのだ。

 じゃあどうすればいいかというと、何らかの人間関係に限定を設けるような仕組みがあればいいんじゃないだろうか。無限に誰とでもつながりすぎることができるよりも、そちらのほうが人間には合っているかもしれない。そっちのほうが落ち着く気がする。それはソーシャルネット以前に戻るということではなくて、ソーシャルネットの無限につながりを広げていける可能性と、ネット以前のある意味安定した静的なコミュニティとの、両方の良い所を合わせたようなものになるはずだ。まだそれがどんなものかはよく分からないけれど。なんとなくのイメージとしては、現実世界の上にTwitterやFacebookなどのソーシャルネットという別のレイヤーがかぶさっているのが現在としたら、そのソーシャルネットの上に更に何か別のレイヤーがかぶさるようなものではないかという気がする。

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法


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