「ギークハウスなう」第19回(Software Design 2011年11月号掲載)

インターネットは人生をレコメンドしてくれるか?


検索可能になっていく世界

Twitterなんかを日常的にやってると、会った人に「今日は@phaさんと飲んでます」などとTweetされることがときどきあるのだけれど、それが困ることもある。気の乗らない用事を「体調が悪いので……」などと言って断って飲み会に出たりしてることもあるからだ。まあ要するに嘘がばれるとマズいという話で最初から嘘をつかなければいいんだけど、生きてるとなかなかそれも難しいものだ。会う人全部に「Twitterに書かないで!」って口止めして回るのも難しいので、結局それは受け入れていくしかないんだろう。

今まで可視化・検索可能化されていなかったものがネットで簡単に誰でも調べられるようになる、という点ではGoogleストリートビューが登場した時の問題と似ている。Googleストリートビューも、今までは「その場所に行けば誰でも見られるけれどメディアに載っているわけではない」普通の家の外観などが、「ネットで検索するだけで誰でも見ることができる」ようになったことで、「たまたま道を歩いていた自分の姿が勝手に写っている」「ストーカーに家を突き止められるのでは」「干してある下着を見られたくない」などの抵抗意見が最初は結構あった。しかしなんだかんだで結局「公道から見えるものをネットでも見られるようにするのは何も問題ない」というGoogleの主張は定着してしまったように思える。みんな慣れた、ということなのだろうか。

それと同じ論法で言えば、僕が道だとか駅だとか店だとか公の場所でしている行動がTwitterに流出してしまうことは仕方ないのかもしれない。隠し事のしにくい窮屈な世の中になってしまったなー、と思うけど。ちょっと面白いのは、ストリートビューの場合はGoogleがカメラを付けた撮影カーを世界中走らせて頑張って作ったのに比べて、Twitterによる情報の共有化はそれぞれのユーザーによる分散的な行動によって実現されているという点だ。全世界の人の視点を集めれば世界中の様子が可視化できるのでは、みたいなSF的なことを連想してしまう。

ライフログを垂れ流す人たち

大体「今xxさんと飲んでます」とTwitterにつぶやく人は自分自身の行動も開けっぴろげにしていることが多い。「起きた」「田園都市線混んでる」「ラーメン◯◯屋で昼食なう」「雨降ってきた」「終電逃した」なんていう風に自分の一日をダダ漏れにする人は増えている。Twitterだけではなく、買った本や聴いた音楽や行った店を記録する専用のサービスもたくさんあるし、ネットに公開されているその人のライフログ(生活の記録)を追えばその人の日常やお金の使い方が大体把握できる。

なぜ人は自分の行った場所や買ったものを記録して公開したがるのか。自分で後で見返して「あー、今月はいろいろなことがあったな」などといって楽しむ、というのもあるだろうけれど、それならば別に他人に公開する必要はないわけで、やっぱりそれは自分のことを他人に知ってほしい、というのが大きくあるんだと思う。現代のような高度消費社会では何を消費してるかを見ればその人の8割くらいは分かるものだ(多分)。みんな結構やってると思うんだけど、初対面の人と会う前とか会った後とかにその人のTwitterやブログをチェックするよね。ネットに公開されている情報を見ることで「気が合いそうかどうか」とか「危険な人じゃないか」とかを大まかに判断したりできるのは便利だ。

レコメンド VS 選択の自由

そして、そういうライフログ的なデータは個人が仲良くするときに便利なだけではなく、企業にとってもマーケティングに使えるので貴重なデータだ。人が何を食べて何を買ってどういう行動をしているかというデータがあればどういう客層にどういう広告を出せば効果的に物を買ってくれるかを判断できるからだ。Amazon.co.jpなんかを見ると「この商品を買った人はこんな商品も買っています」「この商品を買ったあなたにおすすめの商品はこれです」なんていうレコメンド機能がついていて、この機能は誰が何を買ったかというデータを元にしているわけだけれど、確かに自分好みで面白そうなものをお薦めしてくれたりする。

Amazonのおすすめ機能の例

しかし、ローレンス・レッシグの「CODE」で示唆されていた問題だけれど、そういったレコメンドシステムがもっと発達した世の中はひょっとしたら怖いものかもしれない。例えば本を選ぶとき、レコメンド機能によっておすすめの本が提示される。それを読んでみると、確かに自分好みでとても面白くて満足する。それだけならば問題ないように思えるが、自分に向いている本ばかりが提示されるということは、それ以外の本が目に入る機会がなくなるということだ。

それは、自分で読みたい本を「選んでいる」つもりであっても、ひょっとして「選ばされている」だけだったりしないだろうか。コンピュータが「この人はこれを選ぶだろう」と薦めてきたものをその人が予想通りに選ぶ。そこに人間の自由意志だとか自由選択だとかは本当にあるのだろうか。そのへんのことを考え始めると「自由って何だろう?」というよくわからなくない問題になってきたりするのだけど。

また、自分好みの情報ばかりお薦めされるようになる、ということは、自分が思いもつかない予想外の情報や、自分が嫌っている情報に出会うと機会が減るということを意味する。しかし、新しい発想やイノベーションというのは、ランダムな情報のぶつかり合いや無数の試行錯誤の中から生まれるものではないだろうか? レコメンドが発達しすぎるとひょっとして人間の文明は衰退したりしやしないだろうか(話が大きくなってきた)。

友達もお薦めしてくれる未来?

TwitterやFacebookなどのSNSでは友達のレコメンド機能があって、現在はソーシャルグラフ(ネット上での人間関係の結びつきの情報)を元に友達の友達をお薦めするような仕組みだけれど、それにAmazonで行われているような好き嫌いの要素を含んだ質的なレコメンドが加えられたらどうなるだろう。

その人が公開しているライフログを元にして相性のいいユーザーを紹介される。例えば、「◯◯という音楽を聴いて△△という本を読み、毎日7時間眠って週に3回ラーメンを食べ、海に行くのが好きで、Twitterで週に3回『疲れた』、月に2回『仕事を辞めたい』とつぶやくあなたにぴったりな人はこの人です」とか紹介されて、実際にその人に会ってみたら、初めて会ったと思えないくらいすごく気が合って話も合って、それでそのまま友達とか恋人になったりするのだ。

それはやっぱりちょっと気持ち悪いなー、と思ったりするのだけど、そこまで極端じゃなくてもそれに近いことは少しずつネット社会で起こってきているような気がする。この先どうなっていくんだろうなあ。

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