「ギークハウスなう」第17回(Software Design 2011年9月号掲載)

インターネットは承認欲求でできている


Instagramが写真を楽しくした

最近、街を歩いていてちょっと気になる風景や物があったりすると、ポケットからiPhoneを取り出して、Instagramというアプリで写真を撮ってアップロードするのが習慣になっている。Instagramはソーシャル系写真アップロードサービスとでも呼べばいいだろうか。構造はとてもシンプルで、言うなれば「写真を撮る」「それをアップロードして友達に見てもらう」というそれだけなんだけど、設計が良くて使いやすい。操作のしやすさや、写真にエフェクトをかけて簡単にプロっぽい雰囲気の写真にできることや、あとTwitter、Facebook、Flickr、Tumblrなどの他のソーシャル系サービスとシームレスに連携できることなどがとても快適で、使いやすく楽しいWebサービスとなっている。

何となくInstagramを眺めていると、友達が今いる街の風景や、今から食べるご飯の写真や、飼っている猫の画像などが次々と流れて行く。それを見ながら気に入った写真の下の「いいね!」ボタンを押してみたり、「おいしそう」などとコメントをつけたりするのが楽しい。また、自分でいい写真が撮れたときに何人もの人に「いいね!」を付けて貰ったときの嬉しさもたまらない。今回はこの「いいね!」ボタンをめぐる話をしたいと思う。

「いいね!」ボタンの席巻

「いいね!」という用語はそもそもFacebookで実装された「Like Button」の日本語訳として導入された言葉だ。「like」と「いいね!」では微妙にニュアンスは違うのだが、日本語圏では大体「いいね!」と訳すのが定着しつつあるようだ。

現在ソーシャル系のサービスでは「Like Button」やそれに類する機能は欠かせないものになった感がある。先に挙げたInstagramもそうだし、Twitterの「favorite」、Tumblrの「like」、そして2011年6月にGoogleが立ち上げたFacebookを物凄く意識しているであろうSNSサービスの「Google+」でも「+1」ボタンという同種のものが導入されている。また、2007年7月にはてなが提供した「はてなスター」もクリック一つで好評価を伝えることができるという点で似た思想を持つ。

「いいね!」ボタンは、「なんかいいな」と思ったら深く考えずにただ1クリックするだけでいい。とにかく簡単で素早くて手軽なのだ。昔だったらブログのコメント欄でコミュニケーションを取ろうと思ったら、まず「コメントを書く」ボタンを押して、次に「こんにちは、かわいい犬ですね」などと文章を打ち込んで、最後に「コメントを投稿する」ボタンを押すという、何回もクリックしたりキーを打ったりするというとても面倒臭い手間が必要だった。

それが「いいね!」ボタンでは一瞬だ。画面の遷移もすることなく0.5秒で、「いいと思う」「興味を持った」「同意する」「おいしそう」「かわいい」などの、曖昧だけどシンプルなプラスの感情を伝えることができる。そういった非言語的で直感的で反射的なコミュニケーションは、そもそも現実のコミュニケーションでは表情や声色、身振りや手振りで普通に行われていることだけれど、それがWebを通して可能になったのは画期的なことだと思う。

n-clickを1-clickにすると商売になる。1-clickを0-clickにすると革命になる。」これはネットウォッチ界の重鎮であるotsuneさんによる名言なのだけれど、「いいね!」ボタンはまさにn-clickを1-clickにしてしまった典型的な例だろう。そのうち「いいね!」も0-clickになるのだろうか? それがどういうものなのかはまだうまく想像できないけれど。

なぜ人は無償で表現するのか

「いいね!」ボタンがWebで大流行しているのはその象徴だが、Webを見ていると「結局みんな人とのコミュニケーションを求めているんだな」とつくづく思う。別にお金にもならないのにブログを書いたり、Twitterでつぶやいたり、夕食の写真をアップロードしたり、一人で楽器を練習している風景を生中継したりするのは、やはり誰かに自分を見てもらいたいし、誰かの反応が欲しいからなのだ。だから僕らはWebという大海に情報を放流し続け、それをたまたま見かけたWebの誰かが「いいね!」をしたりコメントをつけたりする。その反復によってネットは無数の素人のコンテンツで溢れている。

相手の本名も素性も分からないようなインターネットの人間関係は本物ではない、もっと現実の人間との繋がりを大切にしろ、という意見もある。しかし僕はそれは少し違うと思う。確かに、家に帰ったときに親密な人がかけてくれる「おかえりなさい」の言葉や、好きな人が自分の料理を食べたときに言ってくれる「おいしいね」の言葉や体験が、そのままネットで代替できるとは思わない。そういった現実の繋がりは、とても貴重で大切なことだ。

でも、一人でご飯を食べざるを得ないとき、一人で作って一人で食べるだけにも関わらず何かのはずみで凄く美味しそうな物ができてしまったとき、Webにその写真をアップロードして、そこで貰った「食べたい!」というコメントや何十もの「いいね!」で幸せな気持ちになる夜もあるのだ。それは現実で人と交わすコミュニケーションと対立するものではなく、現実とお互いに補完し合ってより豊かな生活体験を人間にもたらすものだと思う。

人の間にあって人間と書くように、人間はコミュニケーションしたがる生き物で、他人無しでは生きられない社会的生物だ。それは何万年の昔から現在まで変わらない。しかしテクノロジーの進歩によってそのコミュニケーションのあり方は常に変化しつつある。「いいね!」ボタンの発想を突き進めていくと、そのうちWeb経由で言語を使わずに、だるさや切なさや、怖さや寂しさなどの感情なんかも0-clickで瞬間的に伝えられるようになるのかもしれない。それが実現したら、よくわからないけど、未来だなあ、と思う。


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